知的レベルをそろえること

当たり前のことなんだけど、誰かと意見を交換したり、アドバイスしたり、提案したりするときには、お互いに前提条件がそろってないといけない。
職場とか学校だと、共通集団に属してるので、多くの場合この前提をそろえるという作業がほぼ不要で、あまりそのことを意識しない。
しかし、たとえば政治や社会について語るとか、一般的なことについて論じる場合に、そういう関係ではない友人・知人、あるいはまたネット上の不特定多数、さらに全く相容れない条件集団に属する相手などとのやりとりになると、その作業の重要性がかなり大きくなる。

まだ、特定の問題に対する予備知識をそろえるとか、お互いの立場を明確にして問題点を整えるとかは、やらないといけないことという認識が、おそらく共通にあるので、なんとかなる。
でも、お互いの知的レベル、それまでの一般常識とか、教養とか、学歴とか、マナーとか、そういうものがどこまで一致してるのかまでは、なかなか追究できないし、そこまでそろえるのが必要だという認識も薄い。

ところが、実際には問題をややこしくするのはここのところがポイントで、お互いの知的レベルが合ってないと、相手の言うことの意味を正しく理解できないし、理解させられない。
基本的なところで、何が問題になってて何を言わんとしてるのか、全く一致しないまま、水掛け論だけが進んでいってしまう。

政治論争なんかでは、あえてそういう、問題点を不明瞭にしたまま、お互いの立場を水掛け論的に言い合うということは、成立するが、一般的な会話でそういうことになると、全く不毛な状況になってしまう。

多くの場合、知的レベルで上回ってるほうが、ああこいつはダメだ、ということに先に気づくので、もういいや的にあきらめる場合が多い。
子どもの屁理屈に大人が閉口するのと同じ状況で、おそらく無理が通れば道理が引っ込むというのも、似たようなことなんだろう。
しかし、低いレベルの理解で、相手の言うことも理解できてない人間は、自分の言い分が通った、言い負かしたと思い込んでるので、同じことをあちこちで繰り返す。そして、自分の意見は人を黙らせることのできる正しさを持ってると思い込む。

ネトウヨなんかが、毎日毎日、日本万歳的なことを言って、逆に日本人がいかに低レベルかを証明して回ってるのも、こういう状況があるのかもしれない。

議論がきちんと進むには、やはり容れるということが不可欠だ。容れるものは、相手の意見の意味だったり、その背景の知識だったり、あるいはもっと基本的な学術理論だったりするだろう。
しかし、容れるための容器を自分の中に用意しておかないと、議論が進まないということすら知らない、自分を閉じてしまって開かなければ負けないと信じてる人たちには、こちらの言葉は何も届かない。

全知全能でない限り、人から何かしら教わるところはあるはず。そんな認識すらない人たちが、世間には大勢いて、自分は正しいと信じ込んで、人を下に見て、生きてるという状況を見ると、世界は最終的には良くなる方向へ向かうとは、とても思えない。


Author: talo

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